鳥居元忠 / 三河武士の鑑、徳川十六神将のひとり
岡崎・渡城 (わたりじょう) 城主の鳥居忠吉の3男として1539年に生まれる。幼名は 鶴之助。父・忠吉 は、矢作川の渡し業や川を使った水運を生業に蓄財し金融業なども手掛ける商人であり名士だった。
鶴之助は商いには関心を示さず、武家に仕官するため剣術を磨いた。岡崎松平家と関りが強かった父・忠吉は、3男の 鶴之助 を " 今川家に人質として連行される幼少の 松平元康 ( 後の徳川家康 ) の世話役 " として今川家の本拠地・駿府城へ同行させ 「 何があろうと元康様をお守りするのだ 」 と命じた。松平元康と鶴之助らは城に身を置きつつ臨済寺へ通い、寺の住職・太原雪斎 (たいげんせっさい) より様々な学問を学んだり武芸を磨く日々を続けた。鶴之助は元康より3歳年上の側近だ。
今川家にて人質生活を続ける元康も元服し、初陣の命が下った。1558年、今川軍として三河・寺部城 ( 愛知県・豊田市 ) を落城すべく出陣した。鶴之助 (20歳) も同行し見事に落城させた。1560年になると今川義元は太原雪斎と共に愛知・尾張 ( 織田勢力 ) を打倒すべく大軍を率いて出陣する。元康一行は三河・松平勢力を率いて、今川義元の軍勢よりも早く大高城に陣を構え食糧を運び込み決戦に備えた。そして "桶狭間の戦い" が起こる。今川軍の圧倒的優勢と思われた戦いは、織田信長の攻撃によって今川義元が討たれ決した。義元の首実検 ( 本人確認 ) は、長福寺境内にて、生前の義元と親交のあった僧侶によって行われた。
元康率いる松平軍は、追手をかわしつつ敗走し岡崎・大樹寺に逃げ込んだ。大樹寺まで織田軍は攻め込んできたが大樹寺の武装僧侶たちも共に反撃し元康を守った。この時、松平元康には妻と2人の子供 ( 男子と女子 ) があり静岡・駿府城の今川の手中にあった。本来ならば戦いに負けたとはいえ、急いで駿府城へ戻るべき立場なのだが、元康は岡崎城に帰り、今川からの独立を宣言した。
鶴之助も岡崎城に入城し元康を支えた。鶴之助は22歳になり彦右衛門元忠 (ひこうえもんもとただ) と名乗った。元康はこれまで今川家の支配下だった松平一族をまとめ束ねる為に尽力するが、そんな中 "三河一向一揆" が起こる。元康は危うく殺されるところだったが何とか話し合いに持ち込むことが出来て争乱は終わった。
義元亡きあと今川家を治めることとなった今川氏真 (いまがわうじざね) は急激に勢力を弱め、それに乗じて人質となっていた妻と子供たちを話し合い ( 人質交換 ) により無事に取り戻すことに成功した松平元康は、その勢いのまま今川の城だった掛川城をも奪い、広く遠州も手中に収めつつあった。更に織田信長とも同盟を結び協力し合って領土を広げることとなった。1571年、信長の要請により、松平軍は "姉川の戦い" に参戦、勝利する。この合戦で功を立てた元忠は合戦においても常に元康の近くに居る参謀となった。元忠33歳。
1572年、父・忠吉が亡くなったため、元忠は家督を相続、渡城主となる。松平元康も徳川家康と名乗った。遠州に侵攻した徳川軍と尾張から西へと領土を広げた織田軍を攻めるべく武田信玄が立ち上がった。これが "三方原の戦い" となる。武田軍の巧みな攻めによって徳川軍は大敗する。徳川軍の勢いを削いだ武田軍は三河から尾張に矛先を変え向かうが、ここで突然、動きが止まる。 なんと武田信玄は病没してしまったのだ。指揮官を失った武田勢は撤退分裂した。
この機を逃さず徳川軍は武田の領地を攻め続けた。1575年、元忠は果敢に諏訪原城を攻め落とすがこの戦いで左足を負傷し以後、杖が欠かせなくなってしまう。1581年、武田軍が篭る高天神城を攻めた元忠はこの戦いでも功を立てた。いよいよ追い立てられ敗走した武田一族は天目山に逃げ入り、武田家の後継者や女子供までもが自決・自刃し武田家の直系は断たれ、武田家の滅亡となった。
ちょうどこの頃、織田信長が建造中だった安土城が完成した。城の完成と武田家の滅亡に喜んだ信長は、安土城へ徳川家康と側近の武将を招いて盛大な祝宴を開いた。これが "本能寺の変" を招き "徳川武将らの伊賀越え" へと進展するのだが、元忠はこの動乱の最中も戦地にて戦っており、難攻不落と言われていた岩殿城も攻め落とし、谷村城 (やむらじょう)も奪取した。明智光秀の謀反により "本能寺の変" が起こり 織田信長 は死んだ。信長亡き後の中央の動乱は、紆余曲折の後に 羽柴秀吉 が後継者となり、新たな局面を迎え、秀吉も姓を豊臣に改め様々な政策を打ち出していた。
秀吉の傘下に入った徳川軍は秀吉の命による "小田原城攻め" に参陣。元忠52歳。新たに難攻不落と言われた岩槻城を落とした元忠は秀吉からも喜ばれ直々に褒美も与えられた。この徳川軍の圧倒的な強さを買われ、家康は秀吉より関東移封を命じられ、同時に元忠は下総国矢作4万石を任され大名となり、様々な改革を施し、その功績により領民たちに愛された。家康の関東移封により関東諸国は急激に栄え潤うこととなった。
1595年、京都・伏見城が完成し 豊臣秀吉 が入城する。入城から3年後、秀吉は死の床に在ったが、息子・秀頼の成人までの政治運営のため "5大老5奉行" を制度化した。同年、豊臣秀吉 伏見城にて病没。その後、豊臣秀頼の後見役として徳川家康が選ばれ、それにより徳川の勢力が急激に強まった。これを嫌った5大老のひとり・上杉景勝は反徳川を鮮明にした。そのため1600年、徳川家康は上杉景勝の討伐をすべく大軍を率いて会津へと向かうことにした。
それに伴い、手薄になる関西の守備を 鳥居元忠 が任され、下総の矢作城より京都・伏見城へと急ぎ呼び寄せられた。
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★ 以下、古書の引用です。
あろうことか大老の1人上杉景勝がこの政権に対して反逆を企てたのです。6月16日、大坂城西の丸に佐野肥後守を留守居役として残し、前田玄以・増田長盛らの見送りを受けて徳川軍は大坂を出陣、伏見城へ向かいました。
同夜に伏見城に到着。伏見城での留守居を任された 鳥居元忠 は、すでに伏見城に居り、自ら杖を突きながら不自由な足を引きずって城中を歩き回り、御供の者にも牡丹餅と煎茶を振る舞ったという。翌17日、家康は伏見城の守備を本丸は鳥居元忠、松の丸は内藤家長、三の丸は松平近正・家忠へそれぞれ命じ、鉄炮200挺を預けた。その後、家康は元忠と酒を酌み交わし「 わしは手勢不足のため、伏見に残す人数は3,000ばかり。そなたには苦労をかける。」と述べると「 そうは思いませぬ。天下の無事のためならば自分と松平近正両人で事足ります。将来殿が天下を取るには1人でも多くの家臣が必要でございます。もし変事があって大坂方の大軍が包囲した時は城に火をかけ討死するほかなく、人数を多くこの城に残すことは無駄。1人でも多くの家臣を城からお連れ下さい。」と答え 「 伏見城には3,000人も必要無い。」 と申し出た。
この夜、元忠と家康は昔話に花を咲かせた。元忠が家康に仕え始めた頃、すなわち家康がまだ今川の人質として肩身の狭い思いをして苦労していた頃の話だったろうと思われる。主従水入らずで語り合い、あっという間に時間は過ぎていった。やがて元忠は「 もう寝られませ。」と言って退出しようとしたが、足が不自由なため思うように歩けず、家康は小姓らに「 手を引いてやれ。」と命じた。小姓らに支えられて退出する元忠の後ろ姿を見て 家康 が泣いた。これまで家康と共に幾多の合戦を乗り越えて来た元忠は、反徳川勢力の動きをすでに予見していたのだ。
一方、大阪城に居た 前田玄以、益田長盛、長束正家 の3奉行は、この時、家康が大阪城西の丸に残していた留守居役・佐野肥後守 を追放して家康に対して "13か条の弾劾状" を発布した。3奉行を背後で操っていたのは石田三成である。そんなことが起こっているとは知らず、翌6月18日午前7時頃、家康は元忠ら4将に見送られ、井伊直政・榊原康政・本多忠勝父子ら錚々たる軍容をもって伏見を出陣した。元忠の予見した通りだった。三成らは、家康の留守を狙って反徳川を掲げ挙兵、真っ先に伏見城がその標的となったのである。
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圧倒的な勢力の差があるにもかかわらず、伏見城での徳川軍は信じられないほどの奮戦を見せ、反徳川勢力の足止めをし続けた後、8月1日に全滅した。鳥居彦右衛門元忠、伏見城にて討死、享年62歳。この知らせを受けた 徳川家康 は、烈火のごとく怒りをあらわにし、すぐさま兵を引き返し " 反徳川勢力との戦い " を決意する。そして迎える天下分け目の合戦、それこそが " 関が原の戦い ( 9月15日開戦 ) " であり、家康にとっては " 旧友・鳥居元忠の弔い合戦 " なのである。
鳥居元忠の墓は、福島県いわき市の長源寺に戒名も与えられ彫られて在る他、京都府の百萬遍知恩寺にも廟所が構えられ立派なお墓が在ります。生まれ故郷の愛知県岡崎市の光善寺にも墓石は在るのですが、寺領の区画整理の際にどの墓石だったかが分からなくなってしまったらしい・・・。もうひとつ、愛知県西尾市の実相寺にもお墓が在ります。このお寺は、鳥居元忠が三河に居る頃、自身の菩提寺にしようと力添えをしていた記録があり、そんな縁でお墓が在るようです。鳥居元忠自身が " 死後はここで眠りたい " と願い選んだ実相寺・・・小さな墓ですが、この企画では大きく取り上げてみました。
※ 上記記事はHPの写真特集と連動しています! (↓)
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