で、早速、僕も岐阜へ行きます。 移動規制前に岐阜の 桔梗塚 ( ききょうづか / 明智光秀の廟所とされる塚 ) の近くへ行ったのが最後ですから岐阜県を訪れるのはもう半年ぶりくらいになりますね・・・まぁ、僕の用事のほとんどはリモートで完了させられるコトなので、動かなくとも事足りるのですが、ソコを敢えて移動したいのが僕なのです・・・なんだかんだ言いながらも。 行ける段取りになってウレシイです。
目的地は岐阜の戦国時代末期の合戦地、関ケ原 の近く・・・実は子供の頃に地域の子供会主催のバス旅行で " 関ヶ原ウォーランド " に遊びに行ったのですが、その場所と少し離れた " 養老の滝 " も同じ旅行のパッケージになってたんでしょうね・・・子供だった僕のアタマの中では、関ヶ原という合戦地が林の中というイメージになっちゃって、しかもその合戦地には、大きな滝があるイメージになってて、おぼろげな子供の頃の記憶は、まさにゴチャ混ぜ状態。
大学生になり、改めて関ヶ原を巡り、関ヶ原っていうくらいだから原っぱだよな、と事実を目の当たりにし 「 どうりでこれまで皆と少しづつ話が食い違ってたワケだ 」 と苦笑しました。 良い子の皆、ウォーランドは合戦地じゃ無いからね、そもそも天下分け目の合戦地としては狭過ぎるし・・・個人的にはコンクリートの武将たち ( 280体 ) も楽しくて好きな場所なんだけどね。
今回は時間があれば " 関ヶ原の本当の合戦地 " に行ってみようと思います。 今の僕は指標となる石碑を辿るだけでも充分楽しめるようになりましたからね。 それもこれも " 関ヶ原 " という映画が公開となってたことと、ごく最近、愛知・岡崎にて 鳥居元忠 ( とりい・もとただ ) という武将 ( 三河武士 ) の存在を耳にして、ちょっとこの人物を調べたからなんですけどね・・・元忠、渋くてサイコーです。
当然ですが、戦国時代の合戦ですから、普段は農民の足軽たちも含め大勢の人々が命がけで戦うワケです。 たくさんの命が失われるのが合戦で " 関ヶ原の戦い " に関してはこんなデータも残っています。 この合戦時、日常的に戦が行われていた日本が " 火縄銃の保有数世界一 " だったらしいのです。
その大量の火縄銃がこの合戦では使われ、兵の多くは刀や槍を交えることも無く撃たれ、石田三成を筆頭とした反徳川勢力の西軍と徳川家康が束ねる東軍との合戦の勝敗は6時間で決したようです。 火縄銃が大量に使用されたコトと、開戦前までは圧倒的有利と思われていた西軍の結束が、いざ戦が始まってみると驚くくらい脆かったコトが、徳川家康率いる東軍を勝利に導いたと言えます。 それには " 関ヶ原の戦い " 直前に起こった " 伏見城の戦い " が大きく影響しているとも言えます。
" 伏見城の戦い " によって徳川家臣の鳥居元忠を筆頭とする武将ら ( 1,800人 ) が " 武士らしい生き様 " を見せ、反徳川の大軍 ( 40,000人 ) を相手に伏見城での籠城戦で10日以上持ちこたえ、反徳川勢力の足止めをし、どう考えても不利な徳川軍は追い詰められ全滅するまで戦ったのです。
徳川軍は " 伏見城の戦い " には負けましたが、この戦により徳川軍は更に結束を高め、逆に反徳川勢力には衝撃を与えるコトとなりました。 この戦いの2か月後に開戦した " 関ヶ原の戦い " において反徳川勢力の結束が弱まったのは、鳥居元忠の生き様、その壮絶な散り際が、敵対する西軍の武将らにも少なからず感銘を与えたからだ、と言われています。