県外への移動は可能な限り自粛する、という判断が下されているので、以前のように合戦地周辺で調べるコトもままならない現状ですが、こうなるほんの少し前に縁あって関ヶ原周辺を散策し、学生の時よりも関ヶ原で起こったコトへの興味が深まっていた " 関ケ原の戦い " が、合戦から400年以上経過した2020年、新たな調査によって判明したコトが有り、いわゆる定説が部分的に見直されるコトとなりそうです。
徳川家康が率いる東軍と石田三成が率いた西軍とが、岐阜県関ケ原にて激突した " 天下分け目の決戦 " で、結果は東軍が勝利するワケで、勝敗そのものの事実は変わらないのですが、これまでその存在が示されなかった " 新たな城址の痕跡 " が最新の調査で見つかったのです。 コレは石田三成が " 関ケ原の戦い " 以前に、来たるべき合戦のために用意した城であった可能性が非常に高いのです。
これが石田三成の合戦時の動きに更なるリアリティを付加できるかもしれません。 石田三成率いる兵の動きは、特に " 関ケ原の戦い " の前日に、大垣城に陣を置き、徳川軍との間で小競り合いになった " 杭瀬川の戦い " に勝利したあたりから 「 どうしてこのタイミングで大垣よりも西の関ケ原へ移動したのだろう ?? 」 と思うような不明瞭な点があまりにも多いからです。 もしかしたら新たに見つかった城郭へと徳川軍を誘い込み、包囲した後に総攻撃したかったのかも・・・なーんて。
いずれにせよ移動した石田三成を追うカタチで徳川軍は進み、結果的に関ヶ原が戦いの舞台となったのです。 この戦の内実を知るコトは " 関ケ原の戦い " の流れや兵の動きをより深く知るコトにも繋がります。 今後の更なる調査の進展と定説に変化をもたらすかもしれない展開にワクワクしています。