個性を磨くために " こだわるコト " は重要なポイントになると思う。 その " こだわり " が更に純度を増してゆくと " イイと思う " から次第に " こうあるべきだ " になって、ついには " それ以外は認めない " になる。 そうした強い信念が " 独特の境地 " や " 新たな扉 " を開くコトはこれまで多くの例があるし、決して珍しいコトではない。
この強い感覚が、様々な局面で " 良い方向 " に羽ばたけば、素晴らしいコトに繋がると思う。 しかし、ひとたびネガティブな方向に作用してしまうと、他人の感覚が自身のこだわりを満足させない場合、嫌悪感を強めるコトになってしまう。 それぞれヒトには " そのヒトなりのこだわり " があってしかるべきなのだが、ある程度、範囲内でないと社会生活上、困ってしまうコトになるので、示し合わせる意味で " 教育 " を施す。
この場合の " 教育 " は " 安全に生きるための最低ルールの認知 " に始まって、教育の深度が増すにつれ複雑になってゆく仕組みだけれど、すべての人々が受けられる教育の種類や質は同等では無いし、専門的な感覚となれば様々に枝分かれして " 等しさ " からはドンドンと遠ざかる。 コレはすなわち、様々な感覚やフィーリングを社会に送り出すコトに繋がり、魅力的な " 個性を育む " コトにも繋がる。 そんな中だから " 愛すべきこだわり " は逆に " 指標 " になるワケだ。
" こだわり " は上手く使えば " 導き " にもなる。 しかし、ヒトを嫌ったり傷付けるために " こだわり " を用いたり押し付けるのは良くない。 何に対しても " 好き嫌い " があるように " 得意・不得意 " もあるし、何より " 様々な感覚が存在するコト " ソレ自体が非常に重要なんだ。 だって " こだわり " はソコから発生した感覚の " ひとつ " にすぎないのだから。 " 好き嫌い " は誰にでも普通にあるからね。 皆それぞれにトラブルを回避しようと頑張って、様々に気を使ったりしてる、と思うんだけどな・・・。