僕がHPの内容で困っていると前回記事で書いたら、写真仲間に " こんなのはどうか " と誘っていただき行きました、笠寺観音へ。 笠寺観音は名古屋市南区に在るお寺で、本当の名前は 笠覆寺 ( りゅうふくじ ) と言います。 ただ愛知に住んでいる人でも、本当の名前は知らない人が多く、最寄りの鉄道駅名も " 笠寺 ( かさでら ) " とか " 本笠寺 ( もとかさでら ) " という表記になってるくらい " 笠寺 " というのが定着しています。
寺伝によれば、奈良時代・天平5年 ( 733年、一部文書には天平8年 - 736年 )、僧・善光 ( または禅光 ) が " 呼続の浜辺に打ち上げられ夜な夜な不思議な光を放つ霊木 " を以て十一面観音像を彫り、現在の南区粕畠町にその像を祀る " 天林山小松寺 " を建立したのが始まりだそうです。 この小松寺というのは、現在、笠覆寺が建てられている地よりも 650メートルほど南に存在したとされていますが、資料が乏しく、どこだったのかは特定されていません。 ただ " 粕畠 " という地に、このお寺が存在したというコトだけは分かっています。
その後、約200年を経て堂宇は朽ち、観音像は雨露にさらされるがままになっていました。 ある時、旅の途中で通りかかった 藤原兼平 ( 関白・藤原基経の子、875年 - 935年 ) が、雨の日に雨ざらしとなっていたこの観音像を、自身が被っていた笠で覆った美しい女性 ( 鳴海家長・太郎成高の家に仕える下働きの娘 ) を見初め、都へ連れ帰り " 玉照姫 " と名付け妻としました。 延長8年 ( 930年 ) この縁で兼平と姫により現在の場所に、2人を結び付けた観音像を御本尊として祀る新たな寺が建立され、笠で覆う寺、即ち 笠覆寺 ( りゅうふくじ ) と名付けられた、と伝わります。
その 笠寺観音 では3年前から工事が続けられており、予定では本年末には、すべての工事が終了するというところまで進んでいます。 これは 「 次の1300年にむけて 」 をスローガンとした近代以降最大規模の整備事業です。・・・というコトでこの工事が僕のHPの " 写真特集 " のネタになるのではないか、というワケです。 しかしこの工事の近況報告は、笠寺観音公式サイトの facebook ページから確認出来る状態なので、僕が改めて記事として取り上げるのは、どうなんだろう…?? と思いつつ、まぁ写真撮影はしたのですよ・・・でも・・・どうしようかな・・・。
戦国好きの僕としては、幼少期の徳川家康 ( 当時は松平竹千代 ) と織田信長の腹違いの兄とのいわゆる " 人質交換 ( ひとじちこうかん ) " の場所となったのが、このお寺の境内だったというコトが1番の関心事なんだけれどね・・・。 その感覚でこの地を体感してみると、おそらく戦国時代のこの場所は、周囲よりも小高い丘陵地だったであろうことをリアルに感じましたね。 寺領は、たくさんの川に周囲を囲まれた " 丘だった " と容易に想像できます。 おそらくこの地はこの辺りを行き来する誰もが知ってるような目立つ場所だったのでしょう。 そういうことを感じられただけでも、来て良かったなと思いました。
PS. 笠寺観音周辺の研究をされている方によると、笠寺観音周辺の地域は泥田が広がる地域だったらしく、低い土地では足がとられるほど水を多く含むドロドロな地質だったらしいです。 そして小高い土地には松が多く植えられていたそうです。 松は海辺のような塩分を多く含む地質でも逞しく成長し、防風林としての務めをこなす樹木ですから、周辺の丘の多くは松林となっていたらしく、その松林は第二次大戦頃まで保たれていたそうです。 今はこの辺りが広大な松林と泥田というイメージは無いです。