自身のHPの更新もあるし、中断していた写真特集も進めたいワケですが、マズいコトに何をどこまで済ませていて、何からどう進めるのか、については中断前の自身の記憶が頼り・・・つまり企画書も無ければ記録もして無かったので、とにかくさかのぼって " 取材しに行って撮った写真 " を確認するトコロからしています。
確か 徳川家康公 の祖父である 松平清康公 について調べていて、そこから派生して " 松平家の歴史 " を調査してたような・・・。 それで一気に範囲を広げ過ぎて困ってたんだよなぁ、っていうコトまで思い出せた。 更に言うと、資料によって異説が多過ぎて、どの資料をベースにして進めようか、っていうのも悩ましい限り・・・でもそんなコトを言いだしたら何も進められない。 僕の判断で決めて進めるしかない。
松平清康公 といえば " 守山崩れ ( 森山崩れとも伝う ) " という、松平家の内部紛争によって、愛知・守山 に在った守山城にて 清康公 が死んでしまった事件が超有名で、若くして 松平家筆頭 として勢力を拡大し、三河地方の掌握を成した " 情に厚く有能な武将 " としての人物像についてはあまり知られていない。 若い頃の 清康公 の躍進ぶりはちょっと調べただけでも驚くべき内容で、にわかには信じがたい、と思うほど凄まじい勢いで勢力を拡大した事実に驚かされるんだけどね・・・何しろ、これからだっていう絶好調のタイミングで、信頼していた重臣の息子、つまり身内に背後から刺され殺されちゃったからね。
この息子はその場で 清康公 の家臣に一刀両断に討たれ、その父も息子の愚かな行動の責任をとって切腹を試みたが、清康公 の長男・広忠 ( 家康の父 ) に止められ、その後は広忠の家臣として仕えたと伝わる。 何とも後味が悪く、腑に落ちないコトの多過ぎる事件だが、この時期の 愛知 ( 三河 ) では、松平家が勢力を広げるため兄弟が個々に城を持ち、それぞれが独立して行動するような流れが強まり、同族といえどもまとまりが無かった、という状態が背景にあった。
特に今川家と深い関係を保つ吉良家や、三河に攻め入ろうとする織田家、そして混乱に乗じて虎視眈々と隙を狙う武田家が暗躍し、不安定をより一層の混乱に導こうとした記録も多くみられる。 討たれた 松平清康公 の亡骸は馬と舟を使って即座に運ばれ、清康公 の死はしばらくの間、その事実を隠され、守山城にて松平家の家臣ら代表がどうするか話し合った末、進撃を中止し、本隊も 岡崎 へ撤退した。
冷静に考えてみると " お家の恥 " ともなりそうな " 松平家の大失態 " のハズなのだが不思議にも織田家をけん制する戦のために守山城に決起した松平家のその後の対応は、まるで何事も無かったかのような幕切れとなりました。 そして、すっかり落ち着いてから 清康公 の葬儀は行われたのであります。
・・・と、ちょっと不思議な事件だよね・・・分かりやすく楽しい写真特集が作れると良いなぁ・・・行動制限は解除され、あちこち行けるし・・・心配なのは高騰してるガソリン代だね・・・。