忍者ブログ

WEST SOUL JAM ~とびたいきもち~

かけがえのない日々のイロイロ

駆け足だったけど佐和山城跡へ行きました

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

駆け足だったけど佐和山城跡へ行きました

戦国武将・石田三成 のファンならマストな観光地となる 佐和山城跡 ですが、城主だった 石田三成 は " 関ケ原の合戦 " に敗れて敗走しますが、佐和山城はすでに追手により包囲されていると分かっていました。 そのため城には戻らず長浜市谷口町に在った石田家 ( 当時のお庄屋 ) にかくまわれ2週間程過ごした後、金糞山山中に在る " 大蛇の岩窟 ( オトチの洞穴 ) " という岩洞内に身を隠しました。

しかしその地の部落内に密告者があり、隠れていたところを捕えられてしまいました。その後 " 関ヶ原の戦い " の首謀者の1人として京都の河原にて処刑されてしまいます。その後、佐和山城は、合戦に勝利した徳川軍の武将・井伊直政 が治めるコトとなったので、心情的には複雑な気持ちにさせるお城跡だったりします。


井伊直政 は関ケ原の合戦後、佐和山城で過ごしつつ、現在の彦根城 ( ひこにゃんが住んでる ) の元となる城の築城に乗り出します。 しかし残念ながら直政は、関ケ原の戦いにて負った鉄砲傷が悪化し、城の完成前に 佐和山城の本殿 にて亡くなります。 その頃、佐和山城の天守や石垣は、もう新たな彦根城建築の材にすべく解体され、内湖や運河を利用し運ばれていました。 つまり彦根城は佐和山城をリサイクルして完成させた城だといえます。

井伊直政の死後、荼毘が行われた地は彦根城の南、城下町内の 菩利川河原 という場所で、現在はその地が 長松院 ( ちょうしょういん ) という寺の寺領 ( 墓地内 ) となっており、石塔と供養塔が在ります。 現在、このお寺は彦根城の堀の内側に位置していますが、荼毘が行われた頃はまだ彦根城自体が存在しておらず、荼毘地は川の岸でした。 彦根城の工事の中で荼毘地を寺とし堀で囲った、という順序になるんですね。

そして 井伊直政の墓 は、佐和山城のご城下に在る 清凉寺 ( せいりょうじ ) という井伊家の菩提寺に在ります。 この 清凉寺 には井伊家関連のお墓だけでも58基のお墓が安置されています。 井伊家代々の当主や兄弟、正妻や側室などの墓も在ります。 この 清凉寺 が建っている場所は " 関ケ原の戦い " 以前は 石田三成の家臣・島左近 の居宅跡だった地ですから、関ヶ原の勝者と敗者のいずれにとっても、ここ彦根の地は思い出深い場所だと言えそうです。

そしてこの 清凉寺 のすぐ隣には、なんと 龍潭寺 ( りょうたんじ ) という名のお寺が在ります。 静岡・浜松 にも同名のお寺が在り、しかも静岡の 龍潭寺 には井伊家代々のお墓が井伊家家臣の墓と一緒にたくさんありますから、龍潭寺=井伊家の墓所 と思いがちですが、滋賀・彦根の 龍潭寺 には 井伊直政の墓 は無いのです。在るのは、お隣の 清凉寺 と憶えて下さいね。


彦根の龍潭寺前にある観光案内所にて " 石田三成の居宅跡 " を教えて頂き、足早に訪れてみました。 文献によると三成の居宅跡は、佐和山城下に在った " 湖東焼窯 " の近くだったそうで、現在は古沢町の仙琳寺 ( せんりんじ ) を南下し近江鉄道の高架下をくぐった先の農地でした。その場所は周りより一段高くなっていて、周囲に堀跡かなと思われる用水路がありました。 偶然、近くにお住いの方が通りかかり親切に居宅跡を教えて頂いたのですが、ある日、学者さんと思われる方々が大勢でこの場所へやって来て 「 ここだ!! ここに違いない!! 」 と手持ちの資料にチェックを入れておられたらしく、その物々しさを今も覚えているとおっしゃっていました。

もうひとつ、佐和山城に行こうと歩いていたら、急に沿道の笹がサワサワと鳴り " 何事?? " と身構えていたら、タヌキくんと遭遇しました。 急いで撮った写真は今、ホームページにアップしてます。 更にそれだけではありませんよ、山から下ってたら今度はお猿さんに遭遇です、これもアップしてます。 タヌキとお猿さんに遭遇したので、佐和山城の印象が薄まってしまいアタマに強く残ったのが " タヌキとお猿さん " になっちゃいました。 なんかヒトの生活圏に現れるコトが全然特別なカンジじゃ無いというくらい野生動物もリラックスしていたのがとても印象的でした・・・恐るべし佐和山城。

ちなみに 井伊直政のお墓 は、静岡・浜松の龍潭寺 ( りょうたんじ ) にも在り、父・母、そして おんな城主・井伊直虎 の墓と並んでいます。 そもそも井伊家の発祥の地は 静岡・浜松 で、一度はおとりつぶしとなった井伊家を再興させるべく尽力した人物が 井伊直虎 であり、直虎の働きかけにより徳川に仕えて悲願の " お家の再興 " を果たしたのが 井伊直政 ですからね。

 ★ 佐和山城 映像 → https://www.youtube.com/watch?v=j-QQSerEWBc

ちなみに " 井伊 " というとすぐに連想するのが 井伊直弼 ( 桜田門外の変 ) ですが、直弼 は幕末の江戸 ( 東京 ) にて徳川家の大老として活躍した人物で、直政を初代として数えると13代目の井伊家当主となります。 徳川家康は直政の忠義に報いるため、一時は江戸徳川家の要職の半分が井伊家の人物となってしまうほど井伊家を大切にしました。 そんな江戸期の始まる直前頃に活躍した直政と、幕末の直弼・・・徳川家臣として仕えながら " 時代の大きな波に飲み込まれ、その変わり目に翻弄された井伊家の2人 " という気がしてなりませんね。 
PR

コメント

プロフィール

HN:
WEST SOUL JAM
性別:
非公開

カテゴリー

P R