蔓延防止措置の延長が決まった愛知県。 県外への移動も自粛するワケですが、何かしないと枯渇してしまうワケで、県外も止む無しかと思っていた中、県境となる 清須市 から音源作りの依頼があり、実に3ヵ月ぶりの " 仕事らしい仕事 " への出動が出来ましたよ、県内ですから胸張って。
例によって、出先での " 戦国時代の遺物 " にも胸が躍るワケで、特に清州近郊となれば、清須城を構えた織田家ゆかりの地ですからね。 で、お教えいただいたのが " 今川塚 " についての様々。 " 塚 " というのは、戦 ( いくさ ) によって討ち死にした兵士の御魂 ( みたま ) を鎮めるため、遺骨や遺髪、御守りや愛用していた身の回り品などを土中に埋め、供養するための標 ( しるべ ) です。 " 今川 " とはもちろん、戦国時代の武将、今川義元とその一族を指すワケです。
戦国時代に詳しい方ならばご存知の通り、" 桶狭間の合戦 " において、まさかの大勝利をした織田家が、今川義元の首をとり、自国領内に晒し首としたワケですが、その晒し場が現在の名鉄 津島線 須ヶ口駅前でした。 この首、実は晒された3日後には別の首にすり替えられてました。
この首をすり替えたのは、当時、鳴海城の城主であった 岡部元信 とその配下だと言われています。 " 桶狭間の合戦 " の直前まで、織田家の執拗な攻めに屈することなく鳴海城を守り続けていた 岡部元信 も遂に 今川義元を頼り " 織田家との戦いに出向いて下さい " という書状を送りました。 織田家討伐を懇願したのは 岡部元信 でしたから、この行為 ( 首を盗む ) は故・今川義元にこれ以上、恥をかかせたくないという今川家臣ゆえの行為でした。 ( 鳴海城明け渡しと引き換えに義元の首を、と 織田信長 と交渉した、という説もあります )
しかし、この首を運び、持ち帰り喜んでくれると思った三河の 松平家 も 吉良家 も、はてまた本家・今川家すらもソレどころでは無い状態となっていました。 松平家 は今川の支配からの脱却を画策していましたし、吉良家 はそんな 松平家 の動きや 今川を倒し勢いづく 織田家 の動向が気になり、落ち着いて 今川義元 の死を弔えるような感覚ではありませんでした。 当主を失った今川家の後継者・今川氏真 は大混乱。 ソレもそのハズ、父が負けるなどとは1ミリも思っておらず、慌てて東方へ逃げたくらいでしたから。
せっかく晒し場から持ち帰った義元の首は、どうするか困惑している間に腐敗が激しくなり、結果的に 西尾市の 東向寺 に埋葬されました。 密葬とも言える扱いでありました。 当時の 東向寺 住職は 今川義元 の義理の兄弟だった、といわれています。 だとしても、首を授かるコトは非常に危険で無謀なコトでしたから、相当な覚悟あってのコトだったと思います。
そんな、今川義元の塚・須ヶ口の今川塚 は織田家にとっては敵対する武将・今川義元のものですから、織田家の領内に塚など作るコトはあり得ません。 この、かつての晒し場に建立された塚は、織田家の支配が薄まった時期に、今川家の流れを汲む人々によって建立された塚だ、と考えるのが妥当ですね。
地元の方にお教えいただいた " 須ヶ口の今川塚 " は、2007年に清須市の 正覚寺 に移築されていました。 そして 今川塚の建立に関わった人々の存在についても、新たな事実を知りました。 実は " 桶狭間の戦い " 後に、今川義元の胴体と共に在った家臣らの集団が、愛知県の知多市や東海市に住みついた、ということが分かっていて、現在、知多市周辺で 早川 や 北川 と名乗る人々の先祖がそうだと言われています。
首をはねられた 今川義元 の胴体は、追手の目を欺くため帰路の南方向では無く西へ ( 桶狭間から知多 ) と運ばれました。 知多の地で鎧を外し、白装束に包んだ今川義元の胴体は、桐の箱に入れられ 豊川の大聖寺 に運ばれ供養されました。 知多で 今川義元 の胴体から外した身の回り品は、知多周辺に住みついた家臣らが大切に供養したと言われています。 その標が " 東海市の今川塚 " と言われています。 古い石碑 ( というか、灯篭の台座ですね ) の正面には " 今川義基 " と書かれており、墓荒らしから守るため、あえて " 元 " を " 基 " と表記を変えた、とも伝わるようです。
東海市の今川塚は、その建立当時には寺領に在ったらしいのですが、現在、この地に寺は無く ( 廃寺となったらしい )、現在は後の時代に建てられた " 祠 " の中に石碑が祀られています。 この塚に納められた最も重要な証は、今川義元 の髻 ( もとどり / 髪の毛の束 ) だったのではないか、と伝わっていますが、祠の中に納められた石碑には " 復元 " と書かれていましたから、長い時の流れの中、色々あって塚の設置場所や状態なども、もう昔のままでは無いのでしょうし、今となっては調べようも無いコトですね。 どこかから何かが出てくれば話は別ですが・・・。
ちなみに、自らの城を犠牲にして義元の首を取り戻した 武将・岡部元信 は、この一件の後、しばらくは 今川氏真 の家臣として 今川家 の再興のため尽力します。 そもそも出身が 駿河 だったこともあり、地元愛が強かった 元信 でしたが、氏真 の手腕や残された 今川家家臣団 の冷え切った対応に失望し弱体化して 北条家 の庇護を受けようとする 今川氏真 に不信を募らせ、戦 ( いくさ ) の最中、今川 や 織田、松平 とも敵対する 武田家 に降伏。 のみならず家臣にと志願し、武田家家臣となります。
武田家にても異例の出世をし、名将の名を欲しいままにした 岡部元信 でしたが、齢70歳となった最後の戦でも最前線で刀を振るい、特に名乗るでもなく雑兵と刀をまみえ、無念にも討ち取られます。 名将でありながら最期も雑兵と同じ鎧を身に付けていたため 元信 と分からなかった、というエピソードもあります。 岡部元信 は、最期まで志の高い武将として戦国の世を駆け抜けました。