★ 服部半蔵正成 ( はっとり はんぞう まさなり ) の生涯は、実に信じられないようなドラマチックな展開!!
服部正成 の父・千賀地保長 は、伊賀国北部を領する " 千賀地氏 " の一門の長で豪族でした。 しかし領土が度々周辺国に攻め入られるようになると、次第に生活に困るようになり、室町幕府に仕官すべく上洛し、服部保長 と名乗り 12代将軍・足利義晴 に仕えました。
松平清康 ( 徳川家康 の祖父 ) が、三河国を平定し、その報告のため 将軍・義晴 に謁見すべく上洛した時に 服部保長 に出会い 保長 の人柄を大いに気に入り、その縁で 保長 は三河の松平家に仕えることとなりました。 三河国伊賀 ( 愛知・岡崎市伊賀町 / 伊賀八幡宮の北隣、明願寺の辺り ) に居を構えた 服部保長 は、岡崎城 や 大樹寺 に勤めて松平家に貢献しました。
1542年、服部保長 の5男 ( 或いは6男 ) として 正成 は生まれました。 1548年、6歳になった 正成 は大樹寺に預けられましたが、1551年、9歳になった 正成 は突如 大樹寺から失踪。 どこで何をしていたのか分からず、それでもフラッと兄たちの所に来ることがあり、親には内緒で援助を受けていました。 1557年、失踪から7年目、16歳となり元服を過ぎた 正成 は、松平家の足軽として仕官し、岡崎城の城下 ( 康生通南1丁目辺り ) に住み城へ通いました。
1559年、織田軍の三河侵攻が始まり、尾張と三河の境目となる鳴海城攻略の足掛かりとして、丹下砦 ( 現・光明寺 ) と善照寺砦、中嶋砦が築かれました。 これを知った静岡・駿府の 今川義元 は打倒 織田信長の意思を固めます。 1560年になると 正成 は 今川義元 の命令で " 桶狭間の合戦 " の前準備として、大高城に兵糧の運び込みを指示された 松平元康 に仕え、岡崎城から元康軍に合流します。 この動きを知った織田軍は、大高城に兵糧が運ばれるのを阻止するため、新たに鷲津砦と丸根砦を築きますが、元康軍は包囲をかいくぐって兵糧を大高城に運び込みます。
駿府からたくさんの兵を伴い 今川義元 が沓掛城に到着。 いよいよ戦いが始まります。 元康軍は織田軍の丸根砦を攻撃することとなります。 元康軍は丸根砦を陥落させ、今川軍は圧倒的な兵力で勝ち進みます。 丹下砦で様子を知った信長軍は、善照寺砦に兵を集め高台から戦況を眺めると、中嶋砦にたくさんの幟を立て本陣を装わせるとすぐに谷に沿って おけはざま山 を目指しました。
すると 信長 はその谷で輿が運ばれてゆくのを目撃します。 やがて山の野原に輿が着くと食事の支度が始まりますが、すぐにカミナリと大雨に見舞われ本陣地は大混乱になります。 義元隊は雨宿りしつつ天気の回復を待ち、陣を今川軍本隊がある高根山の有松神社に移すべく移動しようと動き始めます。 そこを狙って 義元隊の背後に回り込むカタチで織田軍は義元隊に襲い掛かり大将・今川義元 は討たれます。 総大将が討ち取られたことにより、元康軍は主戦場から敗走しました。 その後、岡崎城に帰り着いた 松平元康 は、今川支配から脱し、松平家の独立を宣言することとなります。
しかし、浜松城から今川配下として尾張に出兵した 元康 は浜松城の 今川氏真 ( 今川義元 の後継者 ) の手中に妻と子供を人質としてとられたまま。 そこで1562年に 松平元康 改め 徳川家康 は、その後も今川配下であり続ける " 蒲郡・上ノ郷城 " を攻め、城主・鵜殿長持 ( 今川義元の妹を嫁にした ) の長男・長照 の子・氏長 と 氏次 ( この2人は今川義元の妹の孫 ) を人質として捕らえることを思い付きます。 捕らえられれば人質交換という交渉次第で妻と子供を取り戻せる可能性もあるからです。
そして戦いは決行されました。 この " 上ノ郷城への夜襲 " にて、服部正成 は城に忍び込み、内部に火を放つという大役を見事にこなし、この混乱に乗じた家康軍の猛攻で上ノ郷城は落城。 城主・鵜殿長持 と その息子・長照 は戦死、そして人質の確保にも成功、更にその後の人質交換にも成功し、家康 は領地と妻と2人の子供 ( 築山殿、信康、亀姫 ) を岡崎城へ取り戻します。 この戦功により 正成 は 徳川家康 から直々に盃と持槍を拝領され、家康 直属の 徳川家臣団・旗本馬廻衆 に名を連ねることとなりました。
ちなみにその時に焼き払った 蒲郡・上ノ郷城 は、その後、新たに再建され 於大の方 ( 徳川家康の母 ) とその再婚相手である 久松俊勝 との間に生まれた子供・久松康元 に与えられ、1590年までこの地に住んでいましたが、その年の 家康 の関東移封に 久松康元 が同行したため、その時点で廃城取壊しとなりました。
上ノ郷城落城の翌年、1563年に " 三河一向一揆 " が起こります。 正成 は 家康 への忠誠を誓い一揆方を相手に戦い、騒動勃発から1年半後に 家康 の実質勝利で幕を下ろします。 その後、急速に勢力を弱めた今川軍に追い打ちをかけるべく攻撃した1569年の " 静岡・掛川城攻め " やその翌年1570年の " 滋賀・姉川の戦い " では猛将と称えられるまでの戦功を上げ、服部正成 は更に功名を上げることとなりました。 この頃から 正成 は " 半蔵 " という名を加え、服部半蔵正成 と名乗るようになります。
1572年、武田軍の松平領地への侵攻が元で " 浜松・三方ヶ原の戦い " が勃発します。 正成 は一番槍の功名を上げますが、武田信玄 率いる猛攻により徳川軍は大敗。 正成 は 家康 を守りながら浜松城を目指し敗走しますが、追手の攻撃により顔と膝を負傷。 それでも 家康 の乗馬に追いついた敵兵と格闘し撃退しています。 浜松城に帰還した際には敗戦に狼狽する味方を鼓舞するため、独りで城外へ引き返し、向かって来た敵兵と一騎打ちの末、勝利し討ち取った首を手に城内へ戻ります。 この頃より家臣団の中で " 鬼の半蔵 " と呼ばれるようになります。 家臣団には 渡辺半蔵守綱 という槍の名手が居て、守綱 が " 槍の半蔵 " と呼ばれていたため区別するためそういう呼び名にしたようです。
武田軍との戦には負け、たくさんの領地を奪われましたが、武田軍にも大きな被害を与えることが出来たため 家康 は、この時の 正成 の戦いぶりを高く評価し、直々に " 槍二穂 " を贈られ、正成 直属の配下として兵150人を預けました。 その後、しばらくして突然、武田信玄 の死が知らされます。 武田軍の猛攻に悩んでいた 家康 や尾張を束ねる 織田信長 にとっては吉報で、1575年、織田・徳川の連合軍 は決起し武田軍との " 長篠の戦い " が始まります。 この戦は、鉄砲隊が組織的に配された初めての戦いと言われていて、勝敗の決着がつくのも実に早かったと言われています。 武田軍を撃破した 織田・徳川連合軍 の完全勝利でした。 正成 は " 三方ヶ原の戦い " の時に受けた傷がまだ癒えておらず " 長篠の戦い " には参加できませんでした。
完全勝利した戦の後も、敗走した武田軍に対する緊張は高まるばかり・・・武田軍の残党は 織田・徳川 を嫌う地方の武将に擁護され、着々と再集結を画策しました。 そんな中、岡崎城の 松平信康 ( 家康の長男 ) に嫁いだ 信長 の娘・五徳 より 信長 に宛てて密書が届きます。 それは、信康 とその母・築山殿 に武田との内通が疑われるという事を示唆するものでした。 信長 は非常に怒り、直ちに 家康 に命じます。 五徳 と 信康 を離縁し、五徳を清須城へ戻すこと。 更に、今後も織田家との同盟を望むのであれば、家康の正室・築山殿 と長男・信康 の死が代償だ、と言われたのです。 家康 は何とかこの窮地を脱したいと望みますが、結局、信長 の命に背くことは出来ず、築山殿 の暗殺、信康 の自刃ということとなります。 1579年、二俣城に幽閉されていた 信康 自刃の際の介錯を命じられたのは、服部正成 でした。
「 三代相恩の主に刃は向けられない 」 と、落涙しどうしても介錯が出来ない 正成 ・・・それを見るに見かねた検視役の 天方通綱 は 正成 を退け、代わりに介錯しました。 浜松・二俣 の清瀧寺 には、信康 の廟所が在り、体が埋葬されています。 信康 の首実験は清須城にて行われ、その後、岡崎・若宮八幡宮 の本殿横に頭部が埋葬されています。 この 松平信康 の死は、松平内部にも衝撃が大きく、信康 を追って死を選ぶ者もたくさん居ました。
松平家は悲しみに暮れる日々を過ごしましたが、その間も織田方は、不穏な動きを続ける武田軍残党への攻撃の手を緩めず、1582年、最後の大物と思われていた 信玄の子・武田勝頼ら一門 を自刃に追い詰め、宿敵 武田氏の息の根を止めることに成功します。 これを喜んだ 織田信長 は、完成したばかりの 滋賀・安土城 に 家康 をはじめ、徳川軍の家臣団を招待します。 安土城 での接待は、1582年5月15日から17日の3日間。 それはそれは豪華で、連日華やかな行事が行われました。 それから 信長 の薦めもあり、21日には上洛、28日まで京都で過ごし、その後、家康一行は、29日に 堺の豪商宅に赴き宿泊し、茶会なども楽しみました。
6月2日の早朝、京都では " 本能寺の変 " が勃発。 そうとも知らず、家康一行は朝食後、楽しかった旅の思い出を胸に帰路につきます。 一行が 枚方・飯盛山 にさしかかったところへ突然 明智軍の謀反とその結果、織田信長 が本能寺にて自刃したという連絡が入り、一行に緊張が走ります。 徳川家臣団は名のある武将揃いでしたが、平服で兵も無く、土地勘も無いという無いもの尽くしの状態・・・しかも明智軍の大将・明智光秀 と 家康一行 は 安土城で会い、会話もしていたので、徳川一行がどんな状態かは知られているのです。 旅の予定も知られている明智軍に追い狙われることにでもなれば大変なのです。
そもそも、こんな大事が勃発したとなれば、どんな武将がどう動くかも解からず困惑を極め、ここから " 伊賀越え " と呼ばれる苦難が始まることとなります。 一行は馬による追跡を避けるため、あえて困難な山間を抜けるルートを選択し用心深く、しかし迅速に進みます。 父がこの辺りの出身だったことを活かし、農民の方言も理解出来る 服部正成 は、地元の人々に道を教わり、守ってもらいつつ、一同を首尾良く案内し、鈴鹿・白子浜 まで来ました。 ホッとしたのも束の間、浜に先回りしていた追手との応戦となります。 正成 は 家康一行に 「 ここは私と道中に集めた兵に任せて先をお急ぎ下さい 」 と舟に向かわせました。 家康 は、舟に乗り込む直前、家臣のひとりに 正成 の様子を密かに確認し、命を落としているようなことがあれば丁重に葬るように、と申し付けました。
鈴鹿・白子浜から舟に乗った一行は、常滑・榎戸海岸に着き、知多半島を横断し、半田・成岩港から三河・大浜に在った 羽城 ( 現・宝珠寺 ) に到着して身体を休めました。 その後、岡崎から迎えの兵がやって来て、服部正成 を除く一行は無事に岡崎城に帰ることが出来ました。 白子浜に残され、確認を命じられた家臣は、正成 が応戦した辺りを探しましたが見つからず、瑞光寺の方へと進み捜索すると、谷間に横たわる 正成 を発見。 正成 は刀傷の痛みと疲れで意識を失っていましたが、まだ息があり、家臣は背負って安全な場所に連れて行き介抱しました。 家臣の手厚い介抱のお陰で一命をとりとめた 正成 が家臣と共に岡崎に帰着したのは 家康一行 の数日後でしたが、家康 は 正成 の帰還をたいそう喜び " 御先手頭 " に任命し、たくさんの褒美を与えました。
正成 は、その後、多くの兵を率いる指揮官として君臨するも " 伊賀越え " の時、足に受けた何か所もの刺傷により杖が欠かせない状態だったため、自身の息子・正就 に " 半蔵 " を名乗らせ、この責務を学ばせつつ託し " 2代目半蔵 " として共にあらゆる戦地にて徳川の勝利に貢献しました。 個々の記録には残っていませんが、いわゆる " 忍びの者 " として情報収集や情報操作など、その活動は多岐にわたり重要な役割を担ったと云われ、このことから 服部半蔵 は " 忍者 " だったと言われている訳ですが、それに関しては定かではありません。 後の資料では " 諜報活動を指揮した " という記述は非常に多く見られるのだけれど・・・どうなんだろう・・・ここまで調べてくると 正成自身は忍者というよりは、槍の名手で勇猛果敢な武将であった、という印象で、忍者だったか否かは、やはり謎ですね・・・。
織田信長 亡き後、権力を引き継いだ 豊臣秀吉 に命じられ、徳川家 の関東移封 ( 1590年 ) が行われると、正成・正就 親子も江戸へ同行するも、正成自身は剃髪し 西念 を号し、城下に寺を建立し 松平信康 ( 自刃した徳川家康の長男 ) の遺髪を祀った供養塔を建立し菩提を弔う日々を過ごしました。 江戸の発展は驚異的で、江戸城下は数年で何処にも増して華やかなところになりました。 江戸城の西側には " 半蔵門 " と名付けられた門が在りますが、これは戦によって江戸城が攻められた時、最期の逃げ道となる脱出口 ( それ故、焼かれる心配の無いよう、橋では無く陸続き ) で " 最後の最後は 服部半蔵 に任せたい " という 家康 の願いが込められた命名だと云われています。
1597年、初代・服部半蔵 である 服部半蔵正成 は江戸・西念寺にて病没します。 享年55歳。 現在の西念寺は、1634年に行われた都市整備により、新宿区若葉2丁目 に在りますが、当初の西念寺は、現在の 清水谷公園 辺り ( 千代田区紀尾井町2丁目 ) に在りました。
正成 の死は長きにわたり隠され、服部半蔵 が2代目になったことさえも他言無用の極秘扱いだったと云われています。 そのため、服部半蔵 は " 仙人並みに長生き " だとか妙な噂も立ったらしい。 家康 にとって 服部半蔵 という存在は " 守りのカナメ " だったのです。 服部半蔵 という名を " 抑止力 " として使っていた側面もあるようで、江戸時代にはそれ故に様々な説が流布し、謎が謎を呼ぶ存在となり現代に続いているようです。 僕も " 忍者部隊を率いるリーダー " というイメージが強かったし、実際、そういう視点で書かれた資料にも出会いました。 調べてみて良かったと思っています。 ホントのコトも知りたいけれど、謎は謎のままでもイイのかな・・・なんて。
西念・・・West Soul ですよ!!