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WEST SOUL JAM ~とびたいきもち~

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新たな特集は、愛知・刈谷出身の 酒井正親 です!!

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新たな特集は、愛知・刈谷出身の 酒井正親 です!!

West Soul Jam のHPに写真特集をアップしました!! 下記の記事と連動させてありますから、合わせてお楽しみ下さい!

 ★ 酒井正親 ( さかいまさちか ) 松平家三代に仕えた戦国武将。酒井家は代々、徳川の家臣。

1521年 碧海郡酒井村 ( 現・刈谷市西境 或いは 東境 ) に生まれる。 父は 酒井清秀 で松平家直系の家柄。 松平氏 のルーツを辿ると 酒井氏 とは切っても切れない縁があるコトが解る。 遡ると 松平家 の始まりは碧海郡酒井村に在った 丸山城 ( 代々、酒井氏の居城 ) ではなかったか、という説まであって非常に興味深い。 これは 松平家の祖となる 僧・徳阿弥 ( 僧は結婚出来ないので、結婚するために還俗し 松平親氏 を名乗る ) が、入り婿であったか、或いは酒井家の娘を嫁として迎えたか、の違いになるのだが、この点は資料により異なり曖昧になっている。 いずれにせよ御家の古さから言えば 酒井氏 のほうが歴史が長いことになる。

1534年 酒井正親 は元服を機に 松平清康 に仕え、その後 松平広忠 ( 徳川家康 の父 ) に仕える。 更に 広忠 の病死後には 織田家 と 今川家 の人質交換の結果として駿府へ送られることとなった 松平竹千代 ( 後の 徳川家康 ) に仕え、付き人として駿府に同行し生活や行動を共にした。

1560年 竹千代 の初陣 ( 竹千代17歳 ) の際にも 正親 ( 39歳 ) は付き従い、常に 竹千代 の身辺警護に努めた。 竹千代 は初陣を機に 今川家臣 として名を改め 松平元康 と名乗った。 ( 今川義元 の " 元 " を名乗ることを許された ) この時に 元康 と同行した 正親 が攻め落とした城は 寺部城 という現在の豊田市に築かれた城だった。 元々は 今川方の城であったが、城主が 織田方に寝返ったため、攻めるコトとなった。

同年 " 桶狭間の戦い " が起こり、元康 も 正親 も今川軍の配下として参戦し、大高城 に陣を構え 織田軍 と必死で戦った。 しかし、大将・今川義元 が討たれると 元康 は急いで 岡崎 へ戻り、松平家の今川支配からの独立を宣言する。 これを機に 元康 は名を 家康 と改めた。正親 も松平家の独立を支持し、松平家に属し仕えた。

1561年 正親 ( 40歳 ) は、吉良家 ( 今川方 ) の持ち城であった 三河・西条城 を攻め落城後に城主となる。 正親 が城主となった城は、堀を強固にし新たな城郭として整備された。 そして城の名も 西尾城 に改められた。

1563年 正親 が任されていた領地内にて悪行をした無法者が、本證寺 ( 愛知・安城 ) に逃げ込んだため、正親 は寺領に踏み込んで、その無法者を捕縛した。 しかし、このお寺は、松平家の先代・広忠 ( 家康の父 ) が定めた " 不入の特権 " を持つ寺で、正親 はこの事で 三河の 本願寺派 のお寺との関係性を悪くしてしまった。 しかもそれからしばらくして、松平家の砦が築かれた 佐々木城 ( 愛知・岡崎 ) の隣に在った 上宮寺 の穀物蔵に蓄えられていた食糧が、家康の命により 佐々木砦 の兵によって勝手に奪われ、ここでも " 寺領の穀物には手を付けない " という " 不入の特権 " を破ってしまった。 この 正親 と 家康 が起こした2つの出来事により、武装した僧侶と農民が立ち上がり " 三河一向一揆 " が起こってしまう。

家康の父である 松平広忠 との間で " 不入の特権 " が交わされていた寺は、本證寺 ( 愛知・安城 )、上宮寺、 勝鬘寺 ( 愛知・岡崎 ) で 「 三河三ヶ寺 」 と呼ばれ、いずれも城郭寺院と呼ばれる武装された寺院で、まるで城のような造りだった。 この3寺が結束し農民も巻き込み、更には 「 掟破りは良く無い 」 とし、お寺の主張を支持する松平家の家臣たちもが 家康 に背を向け一揆派に加わり、家康 とその仲間である大名達の一派と、争いはズルズルと1年半も続いた。 もちろん 正親 も疲労困憊しつつも応戦し続けた。

この争いの中で一揆派に追い込まれ絶体絶命となった 家康 が、山中八幡宮 ( 愛知・岡崎 ) に在る横穴 ( 鳩ヶ窟 ) に隠れ息をひそめて助かった、という逸話がある。 結局、この戦いは、一揆派が疲弊して 家康派 との間で和議を結び終息した。 しかし、これは実質の降伏であり、一揆加担の僧侶は国外退去、寺院は破却という処分に遭い、三河の地では本願寺系寺院の禁教が定められた。 もちろん、先代・広忠 が定めた特権はこの時点で無効。

家康 はこの後、お寺が武力を持つことを嫌い、そうならないよう目を光らせることとなった。 と同時に高名な僧侶 ( 本願寺派以外 ) を城に招き、仏教の教えを学ぶことにも尽力した。 加えて武装寺院の僧で、特段に武術の優れた者たちを集め " 忍び " としての任を与えた、とも言われている。

その後も 正親 は常に 家康 に寄り添い、的確なアドバイスをしながら戦国の世を生き抜いた。 大きな戦では常に 家康 と共に在り、陣を固めるような存在だった。
1576年 正親 は56歳の時に 西尾城 にて病死する。 病名は分かっていない。 墓は 龍海院 ( 愛知・岡崎 ) に在る。

家康 が本願寺系寺院をようやく赦免したのは1583年であるが、それを願い出たのが 妙春尼 ( みょうしゅんに ) で、この女性は 家康の母・於大 ( おだい ) の姉妹。 三河の地で本願寺派寺院の布教が許されるまでに " 三河一向一揆 " から20年かかったことになる。 この1583年を歴史年表と照らし合わせると 家康 は " 本能寺の変 " により、信長 が討たれ、家康一行が大阪・堺の戦地から命からがら伊賀山中を撤退行軍し、港から船で愛知・大浜へ渡り、そこから岡崎に入った、という " 伊賀越え " の頃だと思われます。 家康 も40歳になり、側近も代替わりが激しくなった頃のこと。




PS. 徳川氏の祖となる男・得川親氏 は 上野国得川 ( 群馬 ) に住んでいた " 新田氏の一族 " の出身であるとされる。 応永の頃 ( 1394 ~ 1428 ) 、親氏 の父・得川有親 は 親氏 を伴い共に世を避けるように諸国を旅し、相模国藤沢 ( 神奈川・湘南 ) の 遊行寺 にて親子で出家し僧になった。 父・有親 は 長阿弥、親氏 は 徳阿弥 の号を授かり修行に努めた。

その後、親子は、三河国大浜 ( 愛知・碧南 ) の 弥名寺 に移り住み、父・長阿弥 はここで亡くなった。 戦が絶えなかった当時、僧はとにかく多忙だった。 そんな中、仏事の縁から 丸山城主・酒井氏 ( 愛知・刈谷 ) と親しくなった 徳阿弥 は、酒井氏に非常に気に入られ、友人としての交流を深めることとなった。 そして 酒井氏 は 徳阿弥 に自身の娘と結婚しないか、と願い出て、徳阿弥 はその申し出を受け還俗し 松平親氏 と名乗り、現・刈谷市に在る 酒井神社 辺りに居を構え、ここで長男・酒井広親 が生まれた。 この長男が 三河酒井氏 の始祖となり 丸山城 の城主として 酒井家 の結束を強くした。

息子・広親 の酒井家の家督を相続するのを見届けた 親氏 は、松平郷 ( 愛知・豊田 ) に居を構え、郷内の見晴らしの良い地に 松平城 を築き子供に恵まれた。 そして 親氏 は移り住んだ 松平郷 にて亡くなった。 そのため、松平郷は " 松平発祥の地 " として広く知られることとなる。 家康 が最終的に苗字を 「 徳川 」 にしたのは、親氏 の元々の苗字が 「 得川 」 で、僧だった時の名が 「 徳阿弥 」 だったかららしい。 ( 徳阿弥 の件、忘備録としてここに記す )

※ 現・刈谷市の 境川周辺には酒井一族が住み繁栄した。 現在、酒井氏の発祥地については、異なる説もあるのだが、これは 酒井正親 が西尾城主となった時、刈谷に暮らしていた一族が、西尾に居を移し、西尾でも一族が繁栄したためだと考えられます。
 
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