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WEST SOUL JAM ~とびたいきもち~

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戦国の三河の武将・永井伝八郎直勝

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戦国の三河の武将・永井伝八郎直勝

下記HPに写真特集のアップが出来ましたので、改めて転載 ( アメブロより ) と加筆して、ブログに記事をアップします!! 記事と写真特集の両方を楽しんでいただけたらウレシイです!!

 ★ 永井伝八郎直勝 ( ながいでんぱちろうなおかつ / 長田直勝 )

戦国時代の初め頃、大浜 ( 愛知・碧南 ) の沿岸部に 羽城 ( はじょう ) と呼ばれた城が在り、城主・長田重元 ( おさだしげもと ) が、長男・長田尚勝 ( ひさかつ ) と、次男・長田直勝 ( なおかつ ) を授かり暮らしていた時に、織田信長 の急襲 ( これが信長13歳での初出陣 ) を受け、長田軍は退却するので精一杯だった、という " 吉良・大浜 攻め " があったようです。 信長 は初陣であるにもかかわらず、結果的に 尾張 から 西三河 の深部にまで攻め込み、吉良 では広範囲に家々を焼いたという記録があり、この時は風の強い日に風上から火矢を用いて攻撃するという戦法を使うコトで戦いを有利にして勝利を得たと言われています。

戦国時代前期、尾張 ( 織田軍 / 信長の父・織田信秀 が総大将 ) と 三河 ( 松平軍 / 今川軍の支配下 ) は、現在の 名古屋・星崎 辺りを境界として絶えず侵略のための小競り合いが続いていたのですが、今川軍の前線を任されていた 松平軍 の内輪揉めが肉親殺しにまで発展し、その後の跡目争いも泥沼の様相を呈したため、松平家の統率は乱れ、そのうち一部の家臣が 織田家 と手を結び、強固だった境界の守りが弱まってしまい、三河はしばしば 織田家 に攻め込まれる不安定な状態になっていたのです。 そんな時期に若き 織田信長 が起こした " 吉良・大浜 攻め " もあったようです。

それから間もなく 織田信長 は 美濃 ( 岐阜 ) の 斎藤道三 の娘・帰蝶 ( きちょう / 濃姫 ) を嫁に向かえるのですが、それは 斎藤道三 が隣国の織田家と同盟を結びたかったことに加え、信長 の戦の手腕に感激したためという記録が残されています。 斎藤道三は、娘婿の 信長 が大のお気に入りだったとか。 こうした 織田家 による 三河 への揺さぶりが執拗に繰り返されたため、いよいよ 今川軍 の本体 ( 今川義元 ) が本腰を上げ、ソレが後の " 桶狭間の戦い " につながるのです。

さて " 桶狭間の戦い " の後、松平家 は 今川家 の支配から独立。 長田家 は、羽城 の城主が重元 ( しげもと ) で、長男・尚勝 ( ひさかつ ) は 安城・東端 に新たな城・東端城 を築城し、その城主となり、弟の 直勝 ( なおかつ ) と共に住み、岡崎城 にて 徳川家康 の長男・松平信康 ( のぶやす ) の下、日々仕えておりました。で、更に年月は流れ、織田家 と 松平家 ( 徳川家 ) の同盟関係の成立によって、織田信長 と 正室の 帰蝶 では無く ( 信長と帰蝶の間には子供が出来ませんでした ) お妾の 生駒吉乃 との娘・徳姫 ( とくひめ ) と 松平信康 の婚姻に繋がるのですが、この婚姻がやがて大事件の火種に・・・。

結果、松平信康 は謀反を企んだ罪人として 長田家が住む 大浜・羽城 の牢から 遠江・堀江城、更に 遠江・二俣城 へと転々とし、ついには自刃に追い込まれます・・・長田家次男の 直勝 ( なおかつ ) は、松平信康 の直属の部下であり非常に可愛がられていたため、この出来事には大きなショックを受け、一時はノイローゼ状態にまで陥り 信康 を追って死にたいと嘆願しましたが、そのことを聞きつけた 家康 に 「 早まるな 」 と止められました。

無気力になり、何も出来ない状態にまで疲弊してしまった 直勝 は魂が抜けたよう・・・家康 はそんな 直勝 に自身の苦しかった胸の内、そうせざるを得なかったいきさつを伝え、我が子 信康 への 直勝 の忠義を感謝し称え、是非、これからは自身の家臣としてチカラを発揮して欲しい、と空ろな 直勝 を側近として取り立てました。 その後、長田直勝 は、戦の度に目覚ましい戦功を上げ、徳川家のために敵を倒し続け、その命知らずなまでの勇猛果敢さで石高は上がる一方でした。

更に時は過ぎて1590年、徳川家康 の 関東移封 ( 関東一帯を治めるための移住 ) に従って多くの家臣が関東へ移住しますが、直勝 は同行せず 東端城 に留まり兄に代わって 東端城の城主となり、姓を 永井 ( ながい ) と改め " 永井伝八郎直勝 ( ながいでんぱちろうなおかつ ) " と名乗ります。 その後、1617年 " 大坂冬の陣 " での堂々の大活躍により、常陸国・笠間城 32,000石 の城主となり、愛知・安城 を離れ、茨城・笠間 に転出。 それにより、東端城 は廃城となりました。

その後、更に 下総国・古河城 ( こがじょう ) の城主に任ぜられ、この城にて63年の激動の生涯を終えます。 直勝 居城時の 古河城 は非常に広大で堅固な城郭でしたが現在は、近年になり行われた渡良瀬川の改修工事で城址のほとんどは消失し、その後も積極的に市街地化され、一部が 古河歴史博物館 としてわずかに残るのみです。 渡良瀬川の堤防に城址を示す杭が建てられていますが、気にしていないとほとんど分からないです。

永井伝八郎直勝 ( 1563年生まれ~1626年没 ) という 西三河出身の武将には、その子孫に 作家・永井荷風 ( ながいかふう ) や 作家・三島由紀夫 ( みしまゆきお )、そして 狂言師・野村萬斎 ( のむらまんさい ) などがいます。

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