下記HPに写真特集のアップが出来ましたので、ブログに記事をアップします!! 記事と写真特集の両方を楽しんでいただけたらウレシイです!!
★ 織田信秀 ( おだのぶひで / 織田信長の父 )
織田信秀 については、実は青年期の記録が乏しい。 これは息子・織田信長 の代になり編纂された資料が多いからだろうと思われます。 なので様々な資料から導かれた信頼出来そうなもののみを年表形式で記すこととします。
1511年 信秀 は 勝幡城 ( しょばたじょう / 愛知・愛西 & 稲沢 にまたがる場所に在った ) の城主で 織田家当主の 織田信定 ( のぶさだ ) の長男として生まれる。 ( ※ 生年は1510年の説もあり )
1527年 信秀16歳の時、父・信定 ( のぶさだ ) より家督を譲られ、織田家当主となる。 この前後で 信秀 は遠縁に当たる織田方の姫を正室として迎えるが、ほどなくしてこの正室とは離縁する。 この離縁した正室との間に子供は無い。 その後、側室 ( 不詳 ) との間に長男・信広 ( のぶひろ ) を授かるが、身分の低い側室の子であったため、家督相続の対象としては扱われず、信秀 の長男でありながら 信広 は単なる一族としての扱いしかされませんでした。
1534年 信秀23歳の時、勝幡城 にて 継室・土田御前 ( つちだごぜん ) との間に 織田信長 が生まれる。 信長 の母であり正室を継いだ 土田御前・・・歴史上の重要人物なので詳細が分かる記述があっても良さそうなのに、土田御前 の若い頃の記録は何も無い。 生年や出身、信秀 との馴れ初めについても実はよく分かっていない。 ただ、信秀 が大切に扱っていたことから、身分の高い御家柄の娘 或いは 豪商・豪族の娘 だったのでは、と予想されます。 逆に 信秀 に嫁いでからは何かと話題になる事が増え、存在感を増し記録が多くなる 土田御前 です。
1538年 信秀 は 今川氏豊 の居城であった 那古野城 を謀略によって奪い取り、これを機に名古屋へと勢力を拡大する。 那古野城 は後の 名古屋城 ですが、信秀 が居城とした頃の 那古野城 には 現在のような天守は無く、周囲に堀を巡らせ、内部の四方に櫓 ( やぐら ) を配置し、内部に平屋の本丸屋敷を構えるといった城郭 ( 今川様式の城 ) だったと思われ、現在の 二の丸 辺りに本丸御殿が在り、城郭の規模もこの時点ではかなり小さかった、と思われます。 後に 信長 の居城にもなる 那古野城 ですが 清州城 が完成し 信長 が居を移し、しばらくした頃、城主不在で一度廃城となっています。
1539年 信秀 が率いる織田軍は、名古屋の中心部にまで勢力を伸ばし、那古野城 ( 現・名古屋城 ) に加え、新たに 古渡城 ( 現・東別院 ) を築き、三河に圧力をかけ続けながら 熱田 辺りまでを支配することに成功します。
1540年 織田軍は、三河の 安祥城 ( 現・大乗寺 ) に攻め込み、城を奪うコトに成功。 この城を織田家の三河侵攻のための拠点とすべく、信秀 の長男・信広 ( のぶひろ / 信長の異母兄 ) に城を任せ 安祥城 に住まわせました。
1544年 織田家の勢力が短期間に猛烈に強まったコトに危機感を覚えた 美濃の 斎藤道三 は、今以上に 織田家 の勢力が強まれば、美濃の安泰も危ぶまれると思い、その勢力を抑止する名目で話し合いを持ち掛けた。 しかし互いに主張を曲げず話し合いは整わない。 三河への侵攻に集中したかった織田家と斎藤家との和議は何度も話し合われましたが、最終的に成立せず戦となり、信秀 が 稲葉山城 ( 現・岐阜城 ) に攻め込むことになります。 しかし迎え討つ 道三 の難攻不落の 稲葉山城 の前に大敗したばかりか、攻め込んだ織田家の兵力を大幅に削がれる結果となってしまいます。
1546年 信長 が13歳となり元服したので 那古野城 ( 現・名古屋城 ) を 信長 に譲る。 この頃、尾張の 織田信秀 と 美濃の 斎藤道三 は、緊張状態からようやく和睦した。 これは 三河 の情勢が不安定になり、それに介入し後ろ盾としての勢力を維持させようとする 今川家 の働きかけを知り、織田家 と 斎藤家 がチカラを合わせた方が良い、というその時点での情勢判断によるものだと思われます。 和睦の証として 道三 の娘・帰蝶 は 信長 の嫁として嫁ぐのでした。
1547年 今川家 の動きを察知した 信秀 は、三河の 安祥城 ( 現・大乗寺 & 東尾八幡社 ) に兵を集め陣を構え、本格的に三河を荒らし 松平広忠 ( ひろただ / 徳川家康の父 ) の居城・岡崎城 まで攻め込み、広忠 を降伏させ、息子の 竹千代 ( 後の 徳川家康 ) を人質として捕らえ 古渡城 へ連れ帰りました。 これにより、三河の松平家は、織田家に対し手が出せなくなってしまうのでした。
1548年 信秀 は、名古屋・千種 に新たな居城・末森城 ( すえもりじょう / 現・城山八幡宮 ) を築き、古渡城 ( 名古屋・中区 ) から移り住んだ。
1549年 織田家に対して手が出せない 松平家の状態を良しとしない 今川義元 は、三河に兵を送り、安祥城 を攻め落とし、城を任されていた 織田信広 が人質として今川家に捕らえられました。 この事態に 信秀 は 互いの人質を交換しようと持ち掛け、織田家が捕えている 松平竹千代 ( 後の 徳川家康 ) と 今川家が捕えた 織田信広 との交換を 笠覆寺 ( りゅうふくじ / 笠寺観音 ) にて行いました。 これにより、織田家の支配は、結果的に 三河 から退き 尾張 に押し戻されるカタチとなりました。 この頃から 信秀 の体調は思わしくなくなり床に臥せることが多くなるのです。
1552年 信秀 の体調は更に悪化し 末森城 にて死去。 享年42歳。 葬儀は 萬松寺 ( ばんしょうじ / 名古屋・大須 ) にて盛大に行われ、お墓もそこに在ります。 萬松寺で行われた葬儀の際の 信長 の様子は、後の書・信長公記 ( 現代訳 ) に以下のように記されています。
" 信長公の焼香の時間となった。 その時の出で立ちと言えば、長刀と脇差を縄で巻き、髪は相変わらず茶筅にたて、袴もはかずにいた。 その格好で仏前へ出、抹香をわしづかみにして投げかけ、すたすたと帰ってしまった。 これに対し、信行殿 ( 信長 の弟 ) は折り目正しい服装・作法で威儀を正していた。 その場のだれもが「やはり ( 信長は ) 大うつけであるよ」とささやき合ったが、 その中で筑紫から来た客僧のみは、「 あれこそ国持の器よ 」と評したそうである。"
PS. 信長 の実母・土田御前 までもが、どの資料を見ても、信長 よりも後に生まれた 信行 ( 信秀 の第三子であり 土田御前 との第二子 ) のほうを溺愛していて、何かと 信長 を嫌っていた様子ばかりが記されています。
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