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WEST SOUL JAM ~とびたいきもち~

かけがえのない日々のイロイロ

またまた 愛知・西尾 にて驚く

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またまた 愛知・西尾 にて驚く

愛媛県の 松山城 と言えば、恐ろしく堅牢でかつ美しい名城として名高いワケですが、このお城を築城した初代城主である大名が、愛知・西尾 の出身なんだよ、っていうのは " 知る人ぞ知るレアな情報 " じゃないでしょうか。 とりあえず、僕はその歴史的事実を昨日始めて知って、とても驚きました。

戦国の動乱期のコトですから、三英傑が大暴れした 愛知・三河 には、元々イロイロと史跡は多くて、ちょっと見かけた石碑などを調べると 「 おぉぉ!! 」 なんてコトも珍しくないワケです。 ですが、ソレが 愛媛・松山 の名城・松本城 とも縁が深いとなれば 「 どーして?? 」 ですよね。

ソレは例によって僕が西尾市某所に出向いて頑張った後 「 近くに神社はありますか? 」 とお伺いして場所を教えてもらった際に 「 小さな神社なんだけれど、この地域出身で戦国時代に大名にまで立身出世した 加藤嘉明 ( かとうよしあき ) という人の生誕碑が在る 」 と知らされたんです。 けれど、恥ずかしながら突然その名前だけでは 「 誰?? 」 っていうカンジ・・・。

すぐにググってみたら 「 うっそぉぉぉ!! 」 っていう大大名じゃあーりませんか!!! もちろん、すぐにその神社 " 上永良町神明社 " に行き 生誕碑 も確認。 この辺りで生まれ育って、激動の戦国時代を生き抜き、並外れた立身出世を実現したんだな、と思うとジーンとしましたよ・・・てか、西尾ってスゴイ土地柄なんだなぁですよね・・・。 土地に何かこう " エナジーの塊り " みたいなモノがあるのかもしれないですねぇ・・・。

加藤孫六 ( まごろく / 嘉明 の幼名 ) が生まれたのは1560年に起こった " 桶狭間の戦い " の3年後、それまで " 圧倒的強者 " だった 今川義元 は 織田信長 に討たれ、三河の国 は大混乱の頃ですよ。 しかも彼の父親・加藤教明 は、松平家に仕える身でありながら、その年に起こった " 三河一向一揆 ( 1563年 ) " に加担し、松平家を裏切り敵に回して 松平元康 ( 後の 徳川家康 ) と争い、しかも争いに負けてしまい、死罪を免れるため家族は夜逃げ同然で 兵庫県辺りまで逃げたようなのです。 孫六の父・教明 や 加藤一族 は、裏切り者の汚名をきせられ、それまで務めていた 加藤家代々の居城・岩根城 ( 築城主・加藤掃部助正成 / 愛知県安城市小川町岩根 ) も焼かれて廃城となり、生き残った加藤一族の人々も身を隠すように一時的にバラバラに雲隠れしました。

仕官の道も途絶えた父・教明 は、日陰の身となり関西のアチラコチラを転々と流浪しながら馬や牛の仲買をする商売で家族を養ったらしい・・・つまり、とっても貧乏になっちゃった上に、その息子である 孫六 も幼少期は乞食のような暮らしぶりだったそう。 ただ、孫六は成長するにつけ逞しくなり真面目にセッセと父を手伝う孝行息子であった、という記述は歴史資料に残っています。 この幼少期の貧しい暮らしや牛や馬の世話などの経験が後の彼のチカラとなった、と言われています。 見事なまでに馬術に長けていたのです。

そして 加藤教明一家 が 近江 ( 滋賀県甲賀市 ) に居る時、兄を殺され奈良から 和田城 ( 伊賀と近江の国境辺りに在った城 ) に落ち延びて来た 足利義昭 ( 後の室町幕府将軍 ) に父・教明 が仕えるコトとなり、少しづつチカラを蓄えた 足利義昭 は、当主不在だった 足利家 を立て直し自らが当主となることを宣言しました。 教明 は、足利家に仕えたことで当時 将軍家 と関りが強かった 羽柴秀吉 ( 豊臣秀吉 ) を知ることとなり、後に移ろう世の流れを静観しつつ、豊臣家家臣として仕えるコトとなりました。

そんな 加藤孫六 が元服 ( 成人すること ) を期に、父と同じ 豊臣家 の家来として仕官し雇われたコトから彼の人生はいよいよ戦いの連続になるのです。 そして1583年に 滋賀・長浜 にて起こった 豊臣秀吉 ( とよとみひでよし ) VS 柴田勝家 ( しばたかついえ ) の " 賤ケ岳の戦い ( しずがたけのたたかい ) " にて 豊臣家 が勝利し、しかもこの時に目覚ましい活躍をして功を上げた " 賤ケ岳の七本槍 " のひとりとして 孫六 が 豊臣秀吉 直属の武将として取り立てられるコトにより、その名は武勇と共に広まるコトとなります。

豊臣秀吉 直属の武将となった 加藤孫六 は名を 嘉明 と改め、故郷に錦を飾るコトが出来るようになり、加藤家の墓を 安城・岩根 の地に建て菩提を弔うことを欠かしませんでした。 この墓は当初、城跡の一角に建てられたのですが、後に 小川町の墓地 に移され、今も 岩根城址 からほど近い場所で、彼のお陰で再び胸を張って故郷へ戻るコトが出来た 加藤一族のたくさんのお墓 に囲まれています。

乞食同然の貧しい身でありながらも、兵として取り立ててもらえたコトに心の底から感謝し、命がけで戦い身を削りながら仕えていた 総大将・豊臣秀吉 もやがて死去し、その後の豊臣家の跡目相続の不安定さから " 関ケ原の戦い " が起こり、この戦いを静観していた 加藤嘉明 は、この戦いの決着を見て、かつて父も仕えており、反逆したためひどい仕打ちを受けるコトになった 松平家 ( 徳川家 ) に自ら進んで仕えることとし、ココでも多くの武功を上げるコトで大大名として輝かしい立場にまでのぼりつめ、その結果、1602年には 伊予の国 ( 愛媛県 ) を任され  " 勝山城 ( 後の 松山城 ) " の築城を開始するのです。

名城としての名を欲しいままにする優れた城郭建築や、城を中心とした城下の設計は今も尚、尊敬に値する素晴らしさ・・・その名城の 初代城主 となって後、更なる栄転を果たした 加藤嘉明 は1627年には 陸奥会津藩主 となり本拠を 若松城 に移し、1631年に病気で体調を崩し68歳で死去するまで 若松城 にて人々の尊敬と敬愛を受けつつ暮らしたのでした。

その 加藤嘉明 の生誕地碑が在るのが " 上永良町神明社 / 愛知県西尾市上永良町宮東 " というワケです。 " 賤ケ岳の七本槍 " と呼ばれた 豊臣家武将 の七人は、その後、徳川の世になっても七人が七人とも大出世していて、その天分に気付き若い頃から可愛がっていた 豊臣秀吉 の " 人を見分けるチカラ " にも驚かされますね。
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