渡辺氏の発祥についてですが、大阪の南御堂 ( 東本願寺別院 ) の西辺りとされています。 その地には " 渡辺町 " という地名が今も残っており、渡辺一族が繁栄した名残りと言われています。
守綱 の祖父・氏綱 は、本願寺の僧・蓮如 との縁で 三河・浦辺 ( 愛知・西尾 ) の地へ来て、そこに居を構えたことにより、関西 から 三河 へ " 渡辺姓 " が根をおろすこととなりました。 守綱の父・高綱 は 氏綱 の勢力基盤を基に更に範囲を広め、三河の 安城 や 岡崎 にまでも領地 ( 耕作地 ) を拡大します。 氏綱 は城を持たなかったため、どこに居宅を構えたのかは不明です。
広大な田畑を領する豪族として名をはせた 高綱 は、岡崎 に 占部城 を構え、城主となりここで 守綱 は生まれますが、長男では無かったため、占部城 の後継は兄で、元服すると 岡崎城 に兵として仕えつつ、平時は 農民として占部城下で暮らしていました。 愛知・豊田市 の資料によると、松平元康 と 酒井正親 等が 今川義元 の命令で 豊田・寺部城 を攻めた戦い ( 1560年 ) を 少年期の守綱 は少し離れた場所まで走って行き眺め、大将・元康 ( 後の家康のこれが初陣 ) にもこの時に出会っている旨の記述があります。 それによると " この様な残酷な争いを指示しているのはどんな鬼か、と思ったら、自分と年も同じくらいの若武者だった " という感想を 守綱 は持ったらしいです。
この後、すぐに 松平元康 は 今川義元 の命令で、織田軍と争う為の最前線となる 尾張・大高城 へ兵糧を蓄えるために向かうこととなります。 こうして始まるのが " 桶狭間の戦い ( 1560年 ) " です。 渡辺守綱 はこの戦から松平の配下として本格的に参戦します。 今川軍として争いに参加した 松平元康 でしたが、織田信長 の手により、今川義元 は討死にします。 この後、松平家は今川支配からの独立を宣言し、三河の統一に向け歩みを進めるのです。
そんな中 " 三河一向一揆 " が起こるのですが、守綱 の祖父の代からお寺との縁が強い渡辺家は、どうしても僧や農民の立場になってしまい、早急に支配を強めたかった 松平元康 ( 後の 徳川家康 ) に背を向け松平軍と争うことになり、この戦いで 守綱 の父・高綱 は討死にし、占部城 も焼かれてしまいます。 1年半もズルズルと続いた争いも 松平軍 の勝利で決着し、守綱 はその後、許され再び 松平家臣に戻りました。 守綱の父・高綱 の墓は、愛知・岡崎の 勝鬘寺 に在ります。
以上、新たな情報として 渡辺守綱 の記事に追加したい、と思います。