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WEST SOUL JAM ~とびたいきもち~

かけがえのない日々のイロイロ

次の特集は " 槍の半蔵 " こと 渡辺守綱 です!!

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次の特集は " 槍の半蔵 " こと 渡辺守綱 です!!

調べれば調べるほど楽しい・・・逸話まで紹介してたらこの人だけで一冊になるなぁ・・・削るの大変・・・写真特集も急いでHPにアップする予定です、とりあえず文字から。

 ★ 渡辺守綱 又の名を「 槍の半蔵 」徳川十六神将のひとり

1542年 守綱 は、三河国額田郡浦部村 ( 現・愛知県岡崎市国正町 ) に在った 占部城 にて生まれる。 代々、占部城主だった渡辺家は、歴史を遡ると平安時代に鬼退治で有名になった " 渡辺の綱 " の流れをくむ一族に繋がる。 " 鬼が 渡辺の綱 を恐れるあまり、渡辺の一族に寄り付かなくなった " ことから、古来より 渡辺家 に限り、節分の豆まきは " 福は内 " だけで " 鬼は外 " は無い、というのが渡辺の綱の直系である渡辺家には伝わっているらしい。

現在、守綱 の出生地であった 占部城 には、それらしい遺構も何も残ってはいないけれど、城が在ったとされる辺りには渡辺姓の家がとても多い。 そこに住む末裔の渡辺さんによると、家の敷地内に大きな蓮池が在り、ご主人は先々代に 「 この蓮池はお城が在った時のお堀の名残りだ 」 という言い伝えも聞いてはいたが半信半疑だったらしい。 けれど、その池の埋め立てをする工事に着手し、水を抜いたところ、池の中から古銭がザクザクと出て来て大変驚いたというエピソードもあったようだ。

1560年頃に元服を迎えた 守綱 は、先祖代々、松平家に仕えて来た家柄だったため、その松平家が今川家の支配下にあり、命を受けて " 桶狭間の戦い " に出陣する 松平元康 ( 後の 徳川家康 ) に合流し、大高城 の陣に足軽として加わった。 戦が始まると次第に天候が悪化し、足元がぬかるみ、槍兵であった 守綱 は思うような活躍が出来ずにいた。 ようやく大雨がおさまった頃、敵軍の 織田信長 により 総大将・今川義元 が討ち取られ、長福寺 にて首実検が行われたという伝達が 大将・松平元康 の耳に入った。

元康 は直ちに兵に三河への退却を指示した。 しかし、帰るつもりの 岡崎城 には、今川軍が入城し陣を張っているし、織田軍は背後から追って来るに違いない。 悩んだ 元康 は、直に岡崎城へは戻らず、城から少し離れた場所に在る松平家の菩提寺・大樹寺を目的地とすることに決め、兵を率いた。 
大樹寺に着くと 元康 は兵を集めこう言った。 「 皆、大高城 からここまでの行軍、ご苦労であった。我はここ 大樹寺 の先祖の墓前において自害しようと考える・・・ 」 と語るも、大樹寺 の高僧・登誉上人 ( とうよしょうにん ) に止められ 「 厭離穢土 欣求浄土 ( えんりえど ごんぐじょうど ) とすべき 」 と諭された。

この言葉は、松平家の先祖が代々守って来た浄土教の教えで " 穢れたこの世を厭い離れたいと願い、心から欣んで平和な極楽浄土を乞い願う " という意味。 上人に諭され、自害を思い留まった 元康 は、ならばどうこの難局を乗り越えるべきか、と思案した。 その時、新たな知らせが届いた。 それによると、岡崎城に陣を張っていた今川軍が、岡崎城から撤退し、岡崎城は空き家になったという吉報だった。 守綱 は本当に仏のご加護があったのだ、とこの幸運を喜んだ。 直ちに兵を率いて 岡崎城 に戻った 元康 は、名を改め 家康 とし、松平家 の " 今川家支配からの独立 " を宣言し急いで新体勢を整えた。

その後、守綱 は、松平家の当主として三河を束ねる 家康 に仕え 松平家 の結束のために尽力し献身的に仕えた。 しかし、1563年になると寺院が中心となり農民を巻き込み、更には松平家の家臣の一部までを巻き込み " 三河一向一揆 " が起こってしまう。 守綱 は三河の農民たちの厳しい現実を良く知っており、領民らに同情して、この時ばかりは一揆方に加わり、家康 に背いた。 この混乱は1年半もの間ズルズルと続き、家康方の勝利で決着した。

通常なら、こうした反乱勢力は厳しく罰せられるのが当時の決まりだったが、家康 は、それをせず帰参を望む者たちに対しては、咎めることなく許した。 各地へ逃れた者たちも決して追うことはなかった。 守綱 も 家康 に詫び、松平家に帰参し、以後は 家康 の主要な戦のほとんどに参加し、得意な槍の腕前を存分にふるった。

時は過ぎ、織田信長 亡き後 豊臣秀吉 の世となった頃、守綱 は徳川屈指の武将として戦場では " 渡辺半蔵守綱 " と名乗り、その武功から " 槍の半蔵 " として知らぬ者の無いほど名を上げた。 同じ岡崎の生まれで 服部半蔵正成 が居て、彼もまた槍の名手であったが、もうひとりの " 半蔵 " は、" 鬼の半蔵 " として互いにその名を天下にとどろかせた。

1590年になると、徳川氏の関東移封に同行し 江戸城 にて 家康 に仕え、数々の戦場へ出向いた。 江戸城内の北門辺りに居を構え、城の鬼門を護衛するのが 守綱 の役目だった。 1600年になると、長年の軍功により 家康 より直々に " 南蛮鎧 " を授かり、足軽100人の組頭に任命された。

1608年になると 守綱 は 家康 の九男・徳川義直 の名古屋城主 任命に伴い 尾張 に同行し、義直 をサポートするよう 家康 よりの直命を受け、寺部城主 として 愛知・豊田 に住み、そこから名古屋城へ通い勤めるようになる。 ( この 寺部城 は、かつて 家康 が捕虜となり今川家臣だった時に、今川義元 の指示で攻め、城主を立ち退かせた城。 家康 はこれが初陣であった。)

守綱 は寺部城主として暮らすうち、地元農民たちの要請で氾濫する河川の護岸工事に着手する。 この着工の話を耳にし感激した 家康 の計らいで、江戸暮らしの時に 守綱 の兵であった100人に、この護岸工事の手伝いを命じ、江戸から100人の者が行進し寺部へやって来て、市木川の合流点から梅坪弁財天までの280間 ( およそ500メートル ) の堤が当初の予定よりもずっと早く完成した。

家康 にしてみれば、捕虜時代に 今川義元 の命により初陣で攻めることとなったとはいえ、城の周囲の民たちへの詫びの気持ちもあり、何かこの地域の民のためチカラになりたかったのでは、と思います。 そんな 家康 の想いを知ってか知らずか、叶えた 守綱。 この堤のお陰で 守綱 の領地では、川の氾濫が防がれ、お米の生産が安定し、多くの実りを得ることとなります。 この堤は " 百人堤 ( ひゃくにんづつみ ) " と呼ばれ今も残っています。 ( 現在に至るまで数度、更に強固な護岸工事が、堤の両岸で行われ、護岸地域は増々強固に守られてます )

1616年、駿府城にて 徳川家康 病死。 その後、守綱 は、名古屋城を守る 徳川義直 直々の要請により、名古屋城内にて付家老として補佐する命を受け、名古屋城下に暮らすようになる。 そして武勇のみならず情けに厚い智将であった 渡辺守綱 も1620年、名古屋にて死去する。 享年79歳。

墓は当初、名古屋の邸宅地内に建立した 守綱寺 ( 愛知県名古屋市中区栄3-21-13 ) に納められたが、後に遺族の手により分骨され 守綱 が生前最も愛した " 寺部城 " と " 百人堤 " が見える 守綱寺 ( しゅこうじ / 愛知・豊田 ) の本堂裏の墓地にも遺骨が納められ、今も静かに眠っている。


PS. 大衆に愛され称えられる武将も多く神格化することも少なくないけれど、特に 渡辺守綱 は領土の人々から " 親しみやすく頼りになる人 " として絶大な信頼を得ていた。 そのため、神社で祀られることも非常に多く、愛知・豊田市寺部 の寺部城内の 守綱神社 を始め、領地の寺社で神々と並び祀られている。 例えば、愛知・日進市 に在る 三本木神明社 では本堂内部に 「 守綱社 」 として祀られている。 戦国末期に神格化した武将はそれほど多くなく、このことからも " 領民らに愛された人 " だったことが分かる。 尾張から三河の神社やお寺には " 守綱社 " たくさんあります!!
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