こんな時だから、少しでも皆さんに元気になってもらえると嬉しいんだけれど、なにせ外出もままならないからね・・・仮にどこか場所をご案内するにしても、今じゃ無いよね、と思うワケです。 そこで戦国時代の有名人・徳川家康の母・於大の方 について書くコトにします。
於大の方 ( おだいのかた / 幼名・大 ) は、1528年、父・水野忠政 ( ただまさ ) と 母・於富 ( おとみ ) の間に生まれ、6歳まで生誕地である 忠政 の居城・緒川城 ( 愛知・東浦 ) にて過ごしました。 その後、忠政 は領地を広げ、三河の 刈谷 に進出し 刈谷城 ( 愛知・刈谷 ) に居を移します。 於大の方 はそこで14歳になると、1541年、松平広忠 ( ひろただ / 岡崎城主 ) に嫁ぎます。
1543年1月31日、広忠 と 於大の方 の間に男子が生まれます。 ソレが後に 徳川家康 となる 松平竹千代 です。 が、1544年、於大の方 は 広忠 に離縁され、竹千代を 岡崎城 に残し実家に出戻るコトとなります。 離縁の理由は、於大の方 の兄が 松平家 の当時の宿敵、織田家になびいたためです。 実家に戻るコトとなった 於大の方 は 刈谷城 には戻らず、城から少し離れた地に " 椎の木屋敷 " を建て、その場所で裁縫などを楽しみながら暮らしました。
於大の方 の実家・水野家 は元々は 知多の豪族で 松平家 と親交が厚く、松平家ともども 今川方の武家 だったのですが、この頃になると、新興勢力である 織田方 の求めもあり、少しづつ勢いを増す 織田方 に傾倒しつつありました。 そして1547年、於大の方 は、知多・阿古居城 ( 別名・坂部城 / 阿久比町 ) の主・久松俊勝 に再嫁します。 そして 俊勝 との間に3男3女を儲けます。
武家のしきたりにより、お家の都合によって新たな暮らしの中に居た 於大の方 は、我が子 松平竹千代 ( 徳川家康 ) と共に過ごすことこそ出来ませんでしたが、ずっと真心のこもった手紙を書き続け、季節ごとに贈り物をしていました。 阿古居城 の周囲には 於大の方 が植えた 綿の木 がたくさん在って、地元の人々に 綿づくり を教えた、という記録があります。 元々、裁縫が得意だった 於大の方 は収穫した綿を使い、温かな布団などを手作りされていたようです。
1560年 " 桶狭間の戦い " が起こると 今川家大将・今川義元 は 織田信長 の急襲を受け、討ち取られてしまいます。 今川家の家臣だった 徳川家康 ( 松平竹千代 の後の名前 / 正確なコトを言うと、この時点ではまだ 徳川姓 を名乗ってはいませんが、ここでは以後この名で統一します ) は、この機に今川から自立し、松平家 と 織田家 との間で同盟を結びます。 松平家 として自立し、再び松平家の結束を強固にした 徳川家康 は 久松俊勝 と 於大の方 の3人の息子にも 松平姓 を与え家臣とし、久松俊勝 と 於大の方 を岡崎城に住まわせ、母として迎えることが出来ました。 家康 と 於大の方 の16年ぶりの親子の再会が叶った瞬間でした。 家康 16歳、於大の方 31歳でした。
1587年、於大の方 の夫・久松俊勝 が亡くなると、於大の方 は俗世を離れ剃髪をし仏門に入り 傳通院 ( でんつういん ) と名乗ります。 この時から2年間は 安楽寺 ( 愛知・蒲郡 ) にて暮らしました。 於大の方 は当時としては大変長生きをし、家康 の天下統一を見届け " 関ケ原の戦い " の後には 京都の 伏見城 に暮らし、1602年に74歳で亡くなります。 葬儀は 智恩院 ( ちおんいん / 京都 ) にて行われ、お墓は 傳通院 ( でんつういん / 東京・文京区小石川 ) に在ります。
於大の方 の夫・久松俊勝 の居城・阿古居城 ( 別名・坂部城 ) の近くに在る 洞雲院 ( どううんいん / 愛知・阿久比町 ) にも、久松家代々のお墓に混ざって 於大の方・傳通院 の墓が在りますが、こちらには 傳通院の遺髪 が納められ、墓として丁重に弔われています。
PS. 於大の方 の出生地・緒川城 の現在は 城址の碑と出生地の碑、そして土塁の一部を留めている児童公園となっていて、周囲はすっかり整地され住宅地となっています。 また、緒川城 の門は少し離れた場所に有るお寺・乾坤院 ( けんこんいん ) の総門として移築されています。 この門が かつて存在した 緒川城 の唯一の遺構であります。
刈谷城 も城郭や櫓など一切の建物は失われています。 庭園や本丸へと続く大まかな地形は留めているものの城の周辺は公園として新たな整備が成されています。 椎の木屋敷 も同様に建物は無く居館跡は再整備され公園となっています。 公園には居館跡を示す碑と 於大の方 の銅像 ( 座像 ) が建てられています。
阿古居城 も建物は無く、城へと続く坂道を行くと平らな場所に城跡を示す碑が建てられていて、そこかしこにお堂が並んでいます。 すぐ近くに 洞雲院 が在り、奥の墓地には 傳通院 ( 於大の方 ) の遺髪を納めた墓があります。 葵の御紋が刻まれた立派なお墓です。
安楽寺 は長く真っ直ぐな参道を進み、正面入り口から総門、そして美しい正門と続く貫禄充分な立派なお寺なのですが、2015年10月25日、寺関係者による焚き火の飛び火が原因で 本堂、住居、位牌堂、寝釈迦堂 及び 鐘楼 などが全焼。 焼け跡は さら地となっています。